長岡実業 200年の歴史
 
第四章 未来〜ゼロからの再生、再び世界へ
 
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●終戦と再出発〜輸出大国から輸入大国へ
1945年(昭和20年)8月。戦争は終わった。そして、計り知れない惨禍の中、GHQによる憲法改正、労働改革、農地改革、財閥解体、教育改革などの戦後改革とともに、経済復興が進められていった。
古希を迎えた四代目と43歳の五代目も、力を合わせて長岡再興に心血を注ぎ、1947年(昭和22年)11月20日、長岡実業株式会社を設立。2年後の1949年(昭和24年)には神戸・本山に薄荷工場復興を果たす。
翌1950年(昭和25年)にはようやく民間貿易が再開。これにより、薄荷、人蔘、除虫菊等の輸出を本業とする長岡もみるみる力を取り戻し、人蔘は香港・東南アジアに、除虫菊はアルゼンチンに、糸瓜はロンドンに、生姜はハンブルクにと、精力的に事業を展開していった。
そんな中、1954年(昭和29年)に、四代目佐介が77歳で永眠。佐介の名を襲名した五代目は、その後の薄荷生産の動向を鑑み、1956年(昭和31年)、三井物産と合弁で、ナガオカ・ド・ブラジル商工有限会社を設立。かつては日本が薄荷王国として世界生産量の9割を担っていたとはいえ、すでに薄荷主産地※がブラジル・中国に移っている現状を冷静に分析しての決断であった。
輸出産業から輸入産業へ。その180度の事業転換に伴い、長岡は時代のニーズの先取りに成功する。すなわち、従来の薄荷のもつ苦味を抑えた特別薄荷脳の製造販売である。長年薄荷製造を手がけてきた長岡の技術力が可能にしたこの新しい薄荷は、食品香料として使用するクライアントのニーズに合致し、長岡の地位を確かなものにした。
1964年(昭和39年)、日本はっか工業組合が設立され、五代目佐介が理事長に就任。関係省庁との太いパイプもでき、不況や相場変動の荒波に翻弄されつつも長岡は着実に成長していく。ところが1972年(昭和47年)、72歳で五代目が逝去。「家業は人生であり、命である」との信念を貫き、信用を重んじた、「徳」の人であった。
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昭和5年 家族で

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ブラジルの薄荷畑

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本社事務所裏の人蔘倉庫(元薄荷工場)
  
●プロパーとしての誇りを抱いて
五代目亡き後、三男良幸(前代表取締役社長)が36歳の若さで社長に就任。
昭和50年代から昭和末期にかけては、地価がうなぎ上りに高騰したいわゆるバブル経済の時代であったが、長岡は世相に踊らされることなく、メーカーとしての本分を見据えた事業展開を続けていった。
とりわけ傑出していたのが、天然薄荷の風味をデリケートにコントロールした特別薄荷脳である。当然ながらに高い専門技術を要し、またプロセスも複雑ではあるが、それゆえにこそ長岡ならではの薄荷として、クライアントの支持を得たものでもあった。
また人蔘においても、独自製法による「人蔘エキス」「コウジン末」の製造承認を得て製薬メーカー・薬品問屋に販売を続けるなど、専門性を特化。同時に、各種商品の輸入も手がけるなど、積極的に海外との取引を進展させていった。
その後、1993年(平成5年)、西宮浜に本社・工場を新築移転。2年後の1995年(平成7年)1月17日の阪神・淡路大震災では甚大な被害をこうむりながらも、約1か月で操業再開を実現し、現在はこの厳しい平成不況のなか、薄荷による世界貢献を目指し、日々研鑽を重ねている。
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インド薄荷産地にて

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本社玄関。震災時全体的に50cm以上陥没する
 

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